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  • 香芝の地名は当社の「カシマ」に由来するともいわれています。
    『もりのみやさん』『おうぎのみやさん』とも呼び親しまれ、
    往古からこの地の守り神《鎮守の杜》として、広く皆様から大切にされています。

【由緒・沿革】

ー御鎮座伝承ー
社殿当社の創建は第80代高倉天皇の承安2年(1172年)3月に、源義朝の家臣であった鎌田政清の子・鎌田小次(二)郎政光が常陸国(現、茨城県)鹿島神宮の御分霊を勧請したのが始まりとされます。
当社に伝わる古文書(鹿嶋文書※)によると、平治元(1159)年、平治の乱にあって源義朝が平清盛に敗れ、東国へ敗走中に義朝の第一の家臣であった鎌田兵衛藤原政清の舅 尾張国(現、愛知県)半田郡野間の長田庄司忠致に匿われました。 しかし、忠致は恩賞目当てに義朝を浴場で暗殺、政清も忠致の子景致に殺害され、随行家来の大半は討死致しました。鎌田政清の子・政光はかろうじて難を逃れ、常陸国 鹿嶋神宮に辿り着いたとされています。 そこで、源氏の再興を祈願し、百日の参籠を行い、昼夜一心に法華経を誦唱しました。 満願の夜、夢に一老翁が現れ「庚子(の年)源氏栄え、汝の福 西にあり」との御神託があり、御分霊の御幣を奉じ西方へと向いました。大和の下田の里で夕暮れとなり、土手(田のほとりとするものもある)の松の木の下で野宿し、翌朝この地の景色が極めて鹿嶋に似ていた為、懐かしく思いここに小祠を建て鹿嶋大明神を祀ったといわれます。

また、平安時代中期に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある『葛下郡 深溝神社』は現存せず、各分野の識者・学者の調査や歴史的な考察により当社がそれに当てはまるのではないか、との説もあります。 いずれにしても、往古からこの地の守り神≪鎮守の杜≫として広く皆様から親しまれ、大切にされています。 時代が移り、人が変わっていく中でも、太古より受け継がれてきた「鎮守の杜」は変わりない姿でいつまでも私達を見守って戴いています。
現在の本殿は大正年間に造営、拝殿・絵馬殿・山車殿は昭和58年に改築され、社務所は平成2年に新築しています。
※鹿嶋文書を含め宮座関係文書は県指定文化財にされており、奈良県国立博物館にて保管されています。
  

【御祭神・御神徳】

 ≪武甕槌大神≫  (たけみかづちのおおかみ)  (武甕雷神・建御雷之男神とも表記される)
神様の中でも一、二を争うほど武勇に優れ、武神・軍神として知られています。古来より藤原家を始め朝廷や武士から篤く崇敬され、鹿島神宮(茨城県)や春日大社(奈良市)等、多くの神社にもお祀りされています。
古事記・日本書紀等の神話にある「国譲り」では、皇祖・天照大神の命によって高天原から出雲の国に天下り、見事に国譲りの偉業に挺身されました。また、神武東征の折にも偉大なる働きを発揮され、国土平定に尽力されたといわれます。
軍神として【比類なき力】だけではなく、物事を成し遂げるために必要な【何事にも対処できる知恵】【恐れず立ち向かう勇気】そして【自分自身を信じる強い想い】を持ち合わせ「自信」「希望」を授け与えて下さっています。
お参りその御神徳は多岐にわたり【必勝】【開運】のみならず、除災招福・諸願成就・成功、心身健全、無病息災、様々な御利益をお授け戴いています。
当地にあっては氏神様(その地域をお守り戴いている神様)としても常に私達を暖かく見守って戴いており、下田はもとより香芝市内外から篤く崇敬を受けています。
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